真夏の会津行き⑦飯盛山へ 1
会津藩校「日新館」で一時間半ほど歩いて回って、
白虎隊士たちの教育鍛錬ぶりを垣間見たような気持になったわたし達は、
食事を終えたらすぐにここ「飯盛山」を目指しました。
20分くらい走ったでしょうか。
ナビ任せでお気楽でしたが、
春に来た時、千石通りを走りながら白虎通りとの交差点で
「今度来る時はここを左折して飯盛山へ行ってみたい」
と考えていたわたしは、白虎通りを走らず、
途中から会津盆地の東端の細めの通りを走って行ったので、
ちょっとがっかり~~。
でも、飯盛山が近づくと・・・
通りは急に商店(お土産屋さん)が増えて賑やかになって・・
あ・・飯盛山だ!やったね♪
みたいにルンルン化してしまう主婦なのでした。
ここまで来ると、問題は駐車場。
その駐車場も、運よく空いてる場所が通り沿いにありました。
子連れ孫連れだと待つのは辛い・・・ラッキー♪
飯盛山の入口です。
通りから一歩入って、参道を見上げています。
314mの高さの、飯を盛ったような形のお山。
あの階段(185段)を観ただけで疲れが「どっと」出そう・・・。と、考えるのはわたしひとりじゃないようで。
階段の右手をご覧ください・・・。
スロープコンベアー大人ひとり250円。
わぁお~バッチリ観光地化してますね!
助かりました。
スロープコンベアーを下りると待ってた階段。
でも、これくらいは・・・普通だから(笑)。
上り切ると・・・・広場が現れます。
空気が違うのは・・・気のせいばかりじゃないみたい。
広場の左端の「会津藩殉難烈婦の碑」
この碑は、
会津戊辰戦で自刃または戦死した婦女子200余名の霊を弔うため、
昭和3年4月に旧藩士山川健次郎氏等の篤志家によって建てられた顕彰碑、
ということです。
白虎隊のお墓は広場中央のこの入口から入ります。
左奥には・・・
会津藩主 松平容保公の弔歌の碑がありました。
「幾人の 涙は石にそそぐとも その名は世々に朽しとぞ思う」
その通りです・・・。
そして中央に・・・
今も献花が絶えないという自刃した白虎隊士19名のお墓です。
明治元年(1868)の戊辰戦争において飯盛山で自刃した十九士の墓です。
八月二十三日(新暦十月八日)自刃した隊士の遺骸は、
西軍により手をつけることを禁じられていました。
約三ヶ月後村人により、密かにこの近くの妙国時に運ばれ仮埋葬され、
その後この自刃地に改葬されました。
現在の形に十九士の墓が建てられたのは明治二十三年で、
二度にわたり墓域が拡張されました。
ここは・・会津の各地で戦い亡くなった白虎隊士三十一名の墓、と云うことです。
(画像は一部)
あれ・・何だろう?
場違いのようなものが??
気になって近寄ってみました。
この碑の円柱は、ローマ市から昭和3年に贈られたもので赤花崗で、
ベスビアス火山の噴火で埋没したポンペイの廃墟から発掘した、古代宮殿の柱
ですって。
白虎隊士たちが、お城を眺めて落城と勘違いして自刃した・・・・
というその場所が、この先にあります。
下るように歩いて行きます。
夫が真剣に見入っているのは??
ひなこは飽きちゃったのね・・・(ーー゛)
夫が見入っていたのは・・・
白虎隊士自刃者の中でただ一人蘇生した、飯沼貞吉少年のお墓でした。
昭和6年仙台市で78歳で亡くなるまで・・・・
いろいろあったと思われる貞吉少年(後貞雄)のその後の人生・・・。
貞雄は生き残ったことを生涯悔い、
会津若松には一度も近寄らなかった。
遺言により白虎隊の墓近くに昭和32年に遺骨の一部が分骨され埋葬されました。
昭和32年9月の戊辰戦没90年祭に、
財団法人前島会仙台支部の手でこの地に墓碑と顕彰碑が建てられました。
さらに進んで行くと、階段が現れて、目的地に近いたようです。
階段を下りながらの景色です。参拝順路⑤の数字が見えています。
振り返ると、けっこう高低差がありますね。
ここはいろんな方達の墓地でした。
ここに眠るのはどんな人達なんでしょう・・・。
この場所が、白虎隊の自刃の地・・・ということです。
囲ってあるところが狭くて驚きましたが、
当時は見晴らしの良い、森の中の斜面だったのでしょうね。
小さめの像が、額に手を当てて彼方(お城)を眺めていました。
白虎隊の自刃に付いて・・・以前は、
「お城が落城したと誤解した隊士たちが、戻る場所もこころの拠り所も無くして自刃した」
と、何かで読んだか見たか聴いたか、そのように理解しており、
「そんな勘違いするとは、・・・やはり子供達だったのかな・・・」
と考えていたわたしでしたが・・・
白虎隊士は、眼下に行進する滝沢街道の敵軍を衝くか、
城は落ちていないので潜かに道を南にとって入城すべきか、
2論を激論したが決着がつかない。
そこで隊長になっていた篠田儀三郎が結論を出す。
いずれの方法も隊士は十数人の少数故、誤って敵に虜にされる惧れがある。
縄目の恥辱は殿に対し、また先祖に対して申訳がたたない。
潔くここに自刃し、武士の本分を明らかにしようと。
そして同意した一同は城に向かい遙拝決別し、従容として自刃した。
そして同意した一同は城に向かい遙拝決別し、従容として自刃した。
今は↑のような情報を、支持したい・・・。
わたしも眺めてみました。
赤マルの中に・・・お城が見えますか・・・。
少年ながらも武士として生きて、武士道を貫いた白虎隊士。
日新館を観て回った後でしたので、万感胸に迫るものがありました。
さて、
もう一つのお楽しみの場所へ・・・移動します。
って・・・これは?
あぁ・・・移動の途中で足止め・・・くらっちゃった(^。^)。
「郡上藩凌霜隊之碑」
郡上藩でも悲劇の主人公達が・・・
いえいえ・・・こうした武士達の墓碑は・・
こと会津藩だけ、飯盛山だけではありませんよね。
京都の維新の道の先の霊山には、
勤皇の志士達のお墓が並んでいましたもの。
幕末には、日本中に激動の嵐が吹き荒れていたのですものね・・。
と言う訳で・・(どんな訳?)
今回もお疲れさまでした。
次回は飯盛山2 さざえ堂です。
不思議大好きなわたしが、一度は行きたかったお堂です。
お楽しみにね。
☆2013年8月14日 真夏の会津行き